松浦慶斗投手は石巻で被災!北海道から大阪桐蔭への野球経歴まとめ!

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2021年の春の甲子園、優勝候補の一つに挙げられる大阪桐蔭高校のエースナンバーを背負う松浦慶斗(まつうらけいと)投手。

小学生の時から、北海道日本ハムファイターズジュニアの狭き門を突破しメンバーになるなど、実力を認められていました。

松浦慶斗投手は、北海道ではなく宮城県石巻市生まれで、2011年の東日本大震災の被災者です。

今回は、「」と題してお届けします。

松浦慶斗投手は石巻で東日本大震災に

松浦慶斗投手は、小学1年生の時に住んでいた宮城県石巻市で、東日本大震災の津波から逃げた経験を持っています。

授業が終わり下校途中に津波の危険があるとなり、両親が助けに来たそうです。
近くの幼稚園に避難し一命をとりとめましたが、すぐそばに迫ってきている津波を覚えているそうです。

当時、同じマンションに住んでいた友人は、バス乗車中に津波にのまれ亡くなりました。
そんな経験から、元気に野球が出来る喜びを噛みしめながらプレーすることを誓っているそうです。

松浦投手が野球を始めたのは小学1年生です。

小学2年生の時に、親の仕事の関係で北海道旭川市に引っ越しました。

北海道で所属していたチームから、松浦投手の野球経歴を追ってみましょう。

北海道から大阪桐蔭への野球経歴まとめ

松浦選手は、小学2年生で、北海道の新富野球少年団に所属します。

当時は、元甲子園球児の父親、吉仁さんは、少年団のヘッドコーチでもありました。

当時のチーム紹介にも親子そろって名前が載っています。松浦慶斗選手は、背番号は10ですが、チームの一番最初に名前が載っていますので、主軸選手かキャプテンだったのでしょうか。

松浦選手が投手になったのは小学5年生だそうです。

小学校6年生の時に日本ハムファイターズJr.に選ばれています。
この選抜には、1000人近くが応募し、最終的にに選ばれるのは18人という狭き門を突破したのですから、やはり相当な力があったのですね。

松浦選手は中学生になってからは学校の野球部には所属せずに、旭川大雪ボーイズで活動していました。
(大雪ボーイズって名前が面白いですが、冬は大雪のためグラウンドでは練習できなかったそうです)

1年生の時には、カル・リプケン12歳以下の世界大会に出場し、主力として活躍し、世界一に貢献しました。

旭川大雪ボーイズでも、エースと主軸打者として活躍しました。
身長も、中学1年時の170センチから3年時には185センチまで伸び、ストレートの球速は120キロ程度から138キロまであがったそうです。

もちろん、球速アップは体の成長だけではなく、旭川大雪ボーイズの投手専門のコーチの教えも大きかったと語っていました。

そして、旭川大雪ボーイズは、ボーイズの全国大会でベスト8に進出しました。
この大会での活躍が大阪桐蔭の関係者の目に留まり、大阪桐蔭に進学するきっかけとなりました。

またU-15代表の仲間であった池田 陵真(忠岡ボーイズ)からも「一緒に大阪桐蔭で野球しよう」と誘われていたと言います。
池田 陵真選手も、大阪桐蔭の中核選手になっています。

高校では、直球に磨きをかけ、球速も142キロ、146キロと伸ばしています。

高校最後の1年間、集大成となる大活躍を期待しましょう!

そして、その後のドラフトも楽しみに待ちたいと思います。

まとめ

 

今回は、「」と題してお届けしました。

野球がやりたくてもできなかった友もいたことから、「元気に野球が出来る喜びを噛みしめながらプレーする」という松浦投手。

このような姿勢が、彼をどんどん強くしたのかもしれませんね。

コロナ禍で歯がゆい思いはたくさんあるでしょうが、元気なプレーを見せて欲しいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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